先日、金田一春彦氏の追悼番組を観た。NHKアナウンサーが金田一氏に、
「最近の「ら」抜き言葉についてどう思いますか」
と質問すると、金田一氏は、
「みなさんに怒られるかもしれませんが、私はこれは起こりうべくして起こった現象だと思う」
と話していた。すなわち、「見られる」と言う言葉の意味は、
1. 見ることができるという可能の意味。
2. ご覧になると同意語の尊敬の意味
3. 誰か他人に見られるという受身の意味
があり、過去からのこの種の言葉の変遷を見てみると、このうちの可能の意味だけが別の言葉に置き換わってきたという。だから、「見られる」を「見れる」、「食べられる」を「食べれる」という現象をもって、「日本語の乱れ」に結びつけるのはどうかと思う、とおっしゃっていた。
そのときに例として挙げていたのが、「書く」「行く」の可能形であった。われわれは、それぞれの可能形を「書かれる」、「行かれる」とは言わずに、「書ける」、「行ける」と言うことに少しの違和感もない。むしろ「書くことができる」を「書かれる」といわれたら、可能の意味ではなく、尊敬や受身の意味として理解しようとするはずである。(関西では、可能の意味での「書かれる」、「行かれる」がまだ生きている。「書かれへん」・・・)
なるほど、なるほど。「赤信号、みんなで渡ればこわくない」じゃなくて「赤信号、さあみんなで渡りましょう」なんだな。
言葉は生き物である。 日々、進化しているのである。
P.S. 私が高校生だった頃「固執」の読み方は「こしつ」以外認められなかった。今は「こしゅう」でもペケにならないそうだ。
この話を信じられないあなた、試しにキーボードで「こしゅう」と打って、スペースキーで変換してみて下さい。ほらね、「固執」になったでしょ。